「仏を超越する真理とは何か」と問われて、「胡麻餅だ」と答えた禅師に、こういう話があります。
禅師が弟子たちに語りかけます。
「人々は皆、ことごとく光り輝いている。ところが、それは見ようとすると見えない。真っ暗闇だ。だとすれば、人々の輝きとは、いったい何だ?」
弟子たちが黙っていると、禅師が言いました。
「台所と寺の門だよ」
ここまで読むと、これまでのステレオタイプな解釈と同じに聞こえます。人々の輝きとは、もともと人間誰もが内在させている仏としての本質、つまり仏性のことである。ただし、仏性そのものを何か特別な実体あるものとして考えてはならない。そう考える限りはわからない。つまり真っ暗だ。その輝きとは、ほかでもない、すぐそこの、台所や門のありのままの姿なのだ。万物はそれ自体、仏性の現われだ、云々・・・。
ところが、禅師は、この退屈極まりない解釈を見事に裏切ります。「台所と寺の門だよ」と言ったとたんに、こう言うのです。
「そういううまい話は無いほうがましだな」
要するに、何かわかったような答えを出した時点で、話はもう仏教ではなくなる、というわけです。自らの問いは何なのか、それをどういう方法で問うのか、そこから出てきた答えの有効範囲と賞味期限をどう設定するのか。それが「無常」の自覚の上でものを言う立場の智慧というものでしょう。